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思いつくこと
- 2010年12月7日 12:13 AM
- その他
最近ブログをなかなか更新できていないので、思いつくことを書いてみます。
ツイッターでちょっと書いたけど、固定された自己イメージやエネルギーのラベル張りについて。
ヒーラーやプラクティショナーの仕事の一つは、固定された自己イメージを緩めて、あるいはそれを広げて、クライアントが忘れていたより自由な自分を思い出すのを助けることだと思うんです。
しかし、まったく地図がないと手探り状態になる。道を効率よく歩くには、やっぱり地図が便利ですから、地図を使いますね。性格構造論にしても、バックエッセンスのグループ分けにしてもそうですね。それらを使うことはOKだし、うまく使えば効率をあげられる。ヒーラーやプラクティショナーにしても「見立て」ができないとものすごく効率が悪くなる。
しかし、それは地図であって実際の道じゃない。見立ては実際のクライアントによってどんどん修正されるものであって、見立てや地図にクライアントを合わせて解釈するものじゃない。あわないときは一度あっさり捨てるくらいがちょうどいいですね。
と口でいうのは簡単。
僕自身何度も自分の理想のクライアント像にクライアントをはめ込もうとしていることに気づいてきたし、今もそれに気づく。だから僕はいつもそこを意識化する努力をし続けないとだめなんですね。そうしないと失敗するから。
それから、ヒーラー/プラクティショナー側からクライアントの内面やエネルギーについて、「こうなってますよ」みたいなことは極力言わないように注意します。ヒーラー/プラクティショナーの仕事はクライアントの内面の物語が自由に展開する「場」「器」を提供することであって、代わりに解釈することではないですよね。もちろん、その場の中で一緒に味わったり感じたりして、共同作業として形にしていくことはやります。
しかも、ヒーラー/プラクティショナー側からクライアントへの解釈には2つの危険が伴います。1つは通常強い陽性転移が起こっている関係での言葉のもつ意味、もう1つはそれがもしヒーリング後に行なわれればDCシフトのときに発せられる言葉の影響。へたをすると、解釈を伝えることは明らかに害になる。
ヒーラー/プラクティショナー-クライアント関係には「傷ついた癒し手元型」が布置していますから、ヒーラー/プラクティショナー側が自分の言葉を制御するにはマジで努力が必要です。
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わたしの根っこ、たましいの根っこ
- 2010年9月16日 12:44 AM
- その他
このところ、自分の来た道のことを思うのです。
思春期の頃あとにした、自分を育ててくれたふるさと。
豊かでやさしい自然と谷合の棚田。
その土地の土と水と風と光が、わたしの身体の土台をつくり、
その土地を耕し、受け継いで来た人々の汗と涙と笑顔が
わたしの中に流れこんでいるのです。
わたし個人を超えて、わたしにはそういう根っこがあります。
そして同じように、わたしのたましいにもそういう根っこがあります。
その2つがわたしを支える根っこです。
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風と種子と大地
- 2010年9月1日 12:52 PM
- その他
一つの種子が、
風にのってやってきた。
空の旅を終えて
大地に落ちた。
地面はそれを
冷たく拒否することも
ぬくぬくと温めることもなく
種子が触れたところに、そっと触れた。
ここで咲こう。
種子はそう決めた。
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心の領域と因果性、そして理解、共感。
- 2010年8月29日 12:50 PM
- その他 | フラワーエッセンス療法
最近、「エネルギー療法と自然科学」ということを、気がついたら考えていることが多いです。考えようとしているというより、気がつくと考えているという感じです。
世界は因果律だけで成り立っていない、というのはみんな思っていることなんですかね?
でも自然科学がこれほど絶対視される背景には、世界は因果的に説明できるはずっていうことがあるのかなあ?
因果的思考と文化というのはものすごく関係していると思います。欧米の第3チャクラ優位文化は因果的思考になるのは自然といえば自然ですね。
別の言い方をすると、「意識」が関係していると思います。無意識をも含めた領域では因果的思考は成り立たなくなります。
心の領域と因果性について、河合隼雄先生は、「心の問題に因果なんてない」けれども、その人の中から出てきた「因果の筋道にコミットする」ことは意味があるということを「臨床とことば」(鷲田清一氏との対談)の中で述べられています。しかし、外側から見た因果的思考を絶対視して他人に適用してはいけないと。
僕に言わせると、ユングもフロイトも全部そうですけど、それは自分が自分のことを内的に考えていって、内的に考えたことを言うときには、因果の筋道を使っていいんです。私のこういう生き方が息子にこう影響を与えている、だからこうしましょう。しかしそれを他人に適用することはできない。他人に適用できるのは物理学とかですね。これは普遍性があるから。ところが深層心理学は、本人が自分の内界を感じるものとしてやるわけだから、非常に参考にはなるけど、他人に適用すべきものではない、というところがあるんです。なのにそういう因果律を使う。それはおかしい。そんなの心の問題で、因果ないんて考えられないんだと。
心の領域に因果なんてないんだと。しかし、便宜的に因果的な筋道を使うことには意味があると。
ところがその次が大事です。私のところに来た人が、やっぱり自分の生き方が原因で息子が、と言う。ちゃんとその人はその考え方で変わるわけですね。有効なんですよ。因果的思考は。つまり厳密に言えば因果的でないかもしれないけど、思考の筋道を表現するときに、人間と言うのは因果思考がすごく好きなの。特に現代人は。因果的に説明したら、一番その人がふうんと思う。周りの人も。因果的筋道というところに、皆がコミットできる。ところが「私の生き方は、原因ではありません。少しは関係していますが」なんて言っても、誰もコミットしないんです。コミットメントの筋道としての因果性というのは、意味がある。それを便宜的になしえただけでね。だからわれわれ心理療法家は、便宜的因果性に賭ける力を持っているんだと。ただし、それを絶対的真実とは思っていない。それを絶対的真実だと思う人というのはどういう人かというと、たとえば、こういう事件が起こった。原因は母親だ。母親を追及しようとするでしょう。私は絶対コメントしないですね。何が原因かわかりませんから。だからそれを絶対的真実として次の行動を起こさない。けれども、便宜的因果性に賭ける力を持っているのが、臨床心理学者の、あるいはサイコセラピストの役割だというのを、最近書いたんですけどね。
人の心の領域にかかわる仕事をしている人なら誰でも、陥りやすいところではないでしょうか。たとえば、無意識に自分の因果的思考の枠に人を当てはめてしまってそれが実際に言動に至ってしまうことは。鷲田先生は「分かる、理解する」ということについて次のようにおっしゃっています。
まず、分かる、理解するというのは、感情の一致、意見の一致をみるということではないということ。むしろ同じことに直面しても、ああこのひとはこんなふうに感じるのかというように、自他のあいだの差異を深く、そして微細に思い知らされることだということ。いいかえると、他人の想いにふれて、それを自分の理解の枠におさめようとしないということ。そのことでひとは他者としての他者の存在にはじめて接することになる。(「臨床とことば」河合隼雄/鷲田清一)
共感というのは、その枠が崩れることだということを、神田橋先生はおっしゃっていますね。
真の共感が生まれるのは、「思い入れ・思い込み」が描き出した固定したイメージが、なんらかの契機で崩壊して、思いがけない視界がひらけたときです、治療者の体験としては「眼からうろこが落ちた」であり、クライアントの体験としては「通じた」であり、関係の言葉でいうと「出会い」なのです。だからこそ、共感は精神療法でもっとも重要な現象なのです。(「対話精神療法の初心者への手引き」神田橋條治)
私たちには、心の領域に因果性を持ち込んで、人をその思い込みの枠に入れてしまおうという傾向があるようです。
その枠が崩れたときに、その人自身の中から紡ぎ出される物語こそがかけがえのないものなんですね。
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「河合隼雄と箱庭療法」を読み始めて…
- 2010年8月26日 10:13 PM
- その他
河合隼雄先生の本からは、計り知れないくらい多くを学ばせてもらったと同時に、自分には答えを出せないくらいの多くの課題をもらった、と勝手に思っています(笑)。
1992年にNHKで放映された京大の退官記念講演を見たときの、ここには自分がずっと探していたものがある!という感覚は、先生の本を読むたびに再確認され、勇気付けられてきました。
今日図書館で「河合隼雄と箱庭療法」(2008年の追悼シンポジウムの記録)を見つけたので、借りてきて読み始めました。
読み始めて思ったんです。
ここにはずっと探していたものがある!という感覚は、ユング心理学の中にあったのではなくて、ユング心理学を実践されている河合隼雄先生という人の中にあったんだと。
そうしたら、すごく悲しくなってきた。
なぜ、会いに行かなかったんだろう。
会う努力をしなかったんだろう。
後悔と悲しさがこみ上げてきた。
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キュウリグサの言葉
この花を見つけると、思わず立ち止まってしまう。
毎年春になると今出川の交差点の植え込みにそっと咲いている。
自転車で通るときは、ふと
どうしてるかなあ、と思い出す。
この花の小さな淡い青に会うと、
昼間の日常の意識でいる自分に、不意に
違う言葉で話しかけられたような気持ちになる。
——————————————————-
『西の魔女が死んだ』の中で、少女まいはこの花をワスレナグサに似た小さな花として「ヒメワスレナグサ」と呼んでいた。
キュウリグサ
ムラサキ科キュウリグサ属(Trigonotis peduncularis)
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自然のうた
花に意識をあわせて、
花と時間を過ごしていると、
花のうたが聞こえてくるように感じることがありませんか。
それは言葉にはなりがたい自然のうた。
花だけではありません。
人に向き合って、
自分全部をその人の意識の動きに合わせていると、
その人のうたが聞こえてくるように感じることがあります。
そんなとき、
わたしはそのうたに勇気付けられます。
そしてそのうたを
こころの底から誇りに思う。
人も花も自然のうたを歌っているんだなあ。
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ずっと自分の中にあるもの
- 2010年3月6日 11:13 PM
- その他
自分の中に昔からずっとあって、なんとかそれを表現したいと思うのだけれど、どう表現すればいいのかわからない。そういうものがある。それは子どもの頃からあったのかもしれない。
それを思い出すのは、ある種の人に会った時だ。そういう人に会うと、どう表現すればいいかわからないものを、「ああ、これこれ、こっちの方向だ」と思い出しそうになる。
もう何年前になるだろうか・・・、テレビで河合隼雄先生の京大の退官記念講演(だったと思う)を見た。
とここまで書いてNHKアーカイブスを調べてみることを思いついた。・・・・・あった。1992年だった!『現代ジャーナル 河合隼雄の最終講義 ~こころを探る~』 河合先生の最終講義だった。
その日の講義のテーマは「コンステレーション」だったと思う。その話は、ものすごく印象深かった。自分にとってこの上なく大事なことがここにあると感じた。
それから、河合先生の本をはじめとして、ユング派の分析心理学について読むようになった。
王由衣さんに会った時もそうだった。こっちに間違いない、という自分の体の方向感覚がはたらく。スクールを卒業した今、ずっと自分の中にあって、どう表現していいかわからないものを、本気で形にすることを考え始めている。それが残りの人生をかけてやることだと。
それは、どんな形になるか、やってみないと自分でもわからない。
第一、できるかどうかもわからない。
それは、このブログにずっと書いていることの根っこにあるもので、人の魂にかかわること。現在の自然科学が前提とするような因果律でははかることのできない領域のこと。「傷を負った癒し手」のこと。
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オーラ(存在)を通して
- 2010年2月28日 1:56 PM
- その他 | フラワーエッセンスの背景
最近思う。自分がやろうとしていることは、時代の流れとは逆行するのかもしれないと。
いかに効率よく、スムーズに手軽に手に入れるかがもてはやされる時代に、人の中に自ずと育ってくるものを辛抱強く待つことにこそ意味があると思ったり、一番大事なことは存在を通してしか伝わらないと信じるようなやり方は。
しかし、そんな人間がいてもいいだろうとも思う。(笑)
フラワーエッセンスやハンズオンヒーリングを学んで何年か経ったときに、「自分が学びたいのは、フラワーエッセンスやハンズオンのテクニックだろうか」と疑問に思ったことがあった。
自分の中から返ってきた答えはNO。自分が学びたいのはその背後にあるアルケミストとしての生き方だった。だからこそ、自分が選んだ学びの場は「ヒーリング」スクールではなく、「ライフ」スクール(現在のSchool of Healing Arts and Sciences)だった。
20年ほど前、アロン・アブラヘムセン(Aron Abrahamsen)からライフリーディングを取ったことがる。この人生での魂のテーマを1枚の絵の中にいくつかのシンボルとして表現した「ライフシール」は、今も私の宝物の一つだ。その絵の一番外側には24個の瞳が時計の文字のように円をなしている。
ライフスクールでは、よく「ヒーラーは24時間」と言われた。いくら言葉をつくしても、オーラの中にないものは伝わらない。逆に、黙っていようとも、伝えたいことを生きていればオーラを通して伝わる。ヒーラーは生き方そのものが問われる。
さあ、今日も自分の可能性を生きよう!
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花のうたを聴こう
- 1:41 PM
- その他 | フラワーエッセンスの背景
花はうたをもっている。
花はうたをうたっている。
代々受け継いできたうたを、花たちは歌ってる。
フラワーエッセンスは、花のうたを溶かした水だ。
花のうたが私たちの魂に響けば、私たちは一緒に歌いたくなるだろう。
花のうたが私たちの魂に響けば、私たちは思い出すだろう。
魂に響く花のうたに耳を澄まそう。
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